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言語禍~夏の死~

 

プロアマを問わず文学(演劇の脚本なども含めて)に携わる人は言葉それ自体に興味を抱く。テーマが言葉そのものの作品も、ジャンルを問わず見受けられる。言葉を重要な小道具に使ったミステリーは枚挙にいとまがないし、世の中から言葉が徐々に消えていくなんていう実験的な作品もあった。

言語学,記号論の類は言葉を学問的対象物として掘り下げていくけれど、発祥地ヨーロッパの主導になっているのは致し方がない。地理的・文化的な背景も研究されているとはいえ、根っこのところでは、アルファベットに代表される表音文字の文化圏と、漢字などの表意文字文化圏ではポイントが違うのじゃないかなと思っていたら、やはり研究者の中でもそういう考え方はあるようだ。いわく、表音文字の代表格である漢字文化圏では、ソシュールに代表される欧州流の言語学とは違う角度から見たほうが良いのではないか、と。

欧州流のとらえ方では話し言葉(パロール)が先にきて書き言葉(エクリチュール)が後から来る位置付けなのに対して、漢字文化圏での言語の発展過程では、話し言葉と書き言葉が並列に、時に書き言葉が総体の中で、より重要な役割を示す場面があったという。

確かにアルファベットのように、表音文字と少しの記号でしか書き表せない言語と、文字そのものに複雑な意味をも持たせる言語では様相がだいぶ違ってくる、という見方は腹に落ちる。現在の中華人民共和国は、90%の漢民族と50以上の少数民族によって成り立っていると、公式には言われているのだが、言語の観点で見ると、漢民族に分類される人々も母語としてはかなり異なった言葉、上海語とか福建語などで会話をしている。これらの異言語話者同士がコミュニケーションをとるための政策として、漢字が統一的に用いられるようになった、というのが歴史的に見た中国語の成り立ちだという。つまり漢字文化圏においてはエクリチュールの優先度が非常に高く、かつ政治的な側面が強いというわけだ。おまけに中国語は日本語と違い全て漢字で表記されることから、元来一万に及ぶ漢字を覚えなければならず、識字率を上げるために簡体字文字を作って使用語数も激減させたという経緯がある。

なるほど、そう考えると彼の国がちょっかいを出している周囲の国は、フィリピンを除けば旧漢字文化圏なわけで、そもそも漢字を使う種族はうちの属国だという認識でもあるような気がして恐ろしい。

手書きが減った近頃の人々の共通の悩みは字を忘れることだ。編と旁の左右が分からなくなるぐらいならましな方で、読んでいてもたまに紛らわしい漢語の区別(漸次と暫時とか)がつかなくなったり、ひらがなの形が、「さ」ってこれでいいんだっけ?などと戸惑うことすらある。文字自体が自分の支配から遠ざかっているような気がするのだ。

中島敦「文字禍」という短編は、文字が線の集まりにしか見えなくなる男の話だ。現実の世界でも、ある種の精神病に侵されると、文字を文字としてとらえることができなくなる症状が出るらしい。

文字禍(もじか)という単語は広辞苑にも大辞泉にもない中島敦の造語だけれど、僕には刺さるものがあった。僕たちは文字があることを日常に、つまり当たり前のことととらえていて、深く考えることはないけれど、好奇心旺盛な文学好きはやっぱり、文字のない世界に想像を広げ、さらには文字があることによって生じる災いにまで思いを馳せるのだ。そうして、そう、漢字文化圏の僕たちにとって、この災いでもまた、話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)が同等の重みを持つのかもしれない。

かつて欧州の偉大な詩人は、人類が言葉以前の記憶を持たないことに苛立ちを覚え、それを後世に別の詩人が思い出す。ある旅行家は「人の心は言葉が造形する」と言った。そうしてこれらのエピソードもまた、僕自身の言葉によって作られた記憶だ。

僕は詩人たちや旅人の思いをもっともだと思う反面、反対の向きに働く僕自身の苛立ちも感じ続けている。言葉による記憶が、その事柄のクオリア(感覚的な経験)を本当に伝えているのか?という疑問、そしてまた逆に、言葉がなにかを表すのではなく、言葉になったとたんに生まれるものもあるんじゃあないかという、柔らかで傲慢な誘惑も頭を離れない。

冷夏とは、例年より気温が低い夏のことで、冬より低温の夏というものを僕たちは実際に経験したことがない。桑田啓介の「冷たい夏」は詩句としても傑出しているけれど、実際に冷たいわけじゃあない。それでも「冷たい夏」は彼の詩中に現れたとたんに、誰かの中で確かに存在している。

歌人塚本邦夫は、アンドレ・サルモンの詩「夏の死」を引いて、四季の中で”夏のみが死ぬ”と言った。僕自身はかつて、この詩の題(堀口大學訳)を初めて見た時、「夏」と「死」二つの名詞の関連を、夏が死ぬ、つまりS+Vと読んで疑わなかったけれど、例えば他の四季で同じ語群を作ってみた時、春や秋,冬であれば、季節を主語とは捉えず、その季節の中で死ぬ、例えば,”Death in winter”と読むような気がする。塚本はまた、「言葉の夏」とも言っている。彼にもまた、「言葉の夏」は現実の夏とは別に存在するのだ。

そういえば以前影の話を書いたことがあるけれど、俳句の季題で「夏日影」とは夏の影のことではなく、光線そのものを呼ぶという。これもまた言葉によってはじめて存在するものなんじゃないかという気がしてくる。

言葉の限界は僕を苛立たせ、言葉は新しい存在を生む。言葉は僕を振り回し、言葉は僕を魅了する。言葉は人を生かし、時に季節さえ殺す。

 

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